昇 曙夢の奄美シマ唄論の紹介 第四回

清眞人からの研究通信・第4号

 (のぼり)曙夢(しょむ)の奄美シマ唄論の紹介 第四回

彼の『奄美の島々・文化と民俗』(一九六五年、奄美社)より

お断り

この第四回は、これまで紹介してきた昇の議論、特に奄美の「八月踊り」での唄と踊りについての議論を、脇から、いわば補填する特別号にすることにしました。

私はかつて、今は亡き富島甫さん(「古仁屋八月踊り芸能保存会」会長を長年に渡ってお勤めになった)との共著として『奄美八月踊り唄の宇宙』(海風社、二〇一三年)を出版いたしました。この本から幾つか、昇のまさに「八月踊り」論に大いに重なると思われる個所をいわば抜き書きして、今回の研究通信で読者の皆様に提供しようと思うのです。

振り返ると、我々二人が同書の出版を企画し、奄美八月踊りとそこで唄われる様々なシマ唄について富島宅で議論し、彼が提供してくれた資料を整理している最中、我々は昇について一度も言及することはありませんでした。そもそも、私は当時昇についてほとんど無知でしたし、 富島さんがどのぐらい昇について知っていたか、それは今となっては尋ねようがありません。

しかし、昇の議論を知った今、私は昇の議論とかつての我々のそれが期せずして実に深く大きく重なることに驚くのです。そして、昇の議論を補填するうえで絶好と思われる同書の箇所の幾つかを(実はそれは大変な量となるのですが)、絞りに絞って、ここで紹介したくなったのです!

 1 「踊らだなすりば シマや荒れ果ててぃ」

まず、何よりも真っ先に取りあげて読者に紹介したいのは、今この第1節のタイトルとした「踊らだなすりば シマや荒れ果ててぃ」(踊らなかったら、シマは荒れ果ててしまうぞ)の一節に込められた奄美人の深い想いを論じた、同書の第一部・第一章・「十五夜豊年祭」である(四〇~四二頁)。研究通信第2号での昇の説明よりも詳しく八月踊りの由来やかつての様子を語っているので、そのまま全文を紹介することにしよう。

*    *     *

十五夜豊年祭(八月十五日)(再録)

アラセツ、シバサシが過ぎてもまだまだ残暑は厳しく、日中の日差しはきつい。だが朝夕は涼しく、肌に感じる強いニシカゼが吹くようになる。島では北風のことをニシカゼといい、八月以降に最初に吹き始める北風をミイニシ(新北風)と呼んだ。

一連の三八(みはち)月行事は干支の日によって決まるが、この十五夜だけは十五日と満月の日に決まっていた。十五夜は年によっては、アラセツ・シバサシの間に重なる場合もあるが、多くはシバサシの後になる。この十五夜豊年祭のために、夕方となれば相撲の稽古やナクサミ(慰み)と呼ばれた余興の練習をした。

十五夜はシマのイベガナシ(宮加那志)に豊作を感謝する祭りで、集落の最大の行事であった。トネ屋やアシャグェに五毅豊穣の幟を立て、今年も無事に豊年祭を迎えた喜びを言祝ぎ、今年の豊作を感謝、集落の繁栄と家々の幸福、そして来年の五穀豊穣を祈り、集落によっては敬老会を兼ねて祭りが催された。五毅豊穣の五穀とは米、麦、粟、黍、豆をいう。八月までにほとんどの五毅が刈り入れられたことから、その収穫を感謝した収穫祭が十五夜豊年祭なのであろう。

祭りは「振り出し」と呼ばれる芸能から始まった。青年たちは相撲まわしを締め鉢巻をし、ほら貝を吹き、壮年たちは太鼓を打ち、三味線を弾き、指笛(ハト)を吹き、青年の四,五人が「力飯」と呼ばれる握り飯をサンバラ(竹籠)に並べて、肩にかつぎ、その後ろに女性たち数名が古くから伝承されてきた「ツクテングワ」と呼ばれる棒踊りの衣装を着て棒を肩にかつぐ。

男たちが「ホウーエラエー ヨイヤサヌサァー ヤッサガ エーヨイ ヤサヌサァー」と囃せば、それに女たちが返しで、「ホウーエー ラエー ヨイヤサヌサァー ヤッサガ エーヨイ ヤサヌサァー」と繰り返し、敬老者の前では「ツクテングヮ」の唄を歌いながら棒踊りを踊った。そして八月踊りを二、三曲踊り、唄「おぼこれ」で退場した。

この「ホウーエー ヨイヤサヌサァー ヤッサガ エーヨイ ヤサヌサァー」の囃子は本州屋島の壇ノ浦の民謡「貝がら節」のそれと歌詞も節回しも同じである。明らかに、それは諸鈍に落ち延びてきた平家の平資盛一党がもたらしたものである。(付言するなら、奄美の文化は壇ノ浦の戦いの後奄美にまで落ちのびてきた「学問の武家・文化の武家」と呼ばれた平家がもたらした文化を取り入れることで誕生したといってよい。平資盛は瀬戸内町の諸鈍、平行盛は奄美市の戸口、平有盛は奄美市の浦上に居を構え、平有盛の七名の娘が祝女となって奄美全島のノロ制度を確立したといわれる。)

この「振り出し」が終わると、今度は、十五夜豊年祭の目玉というべき相撲大会が開かれる。まずそれは男子青年団の相撲甚句の披露から始まり、そのあと子供相撲、青年団相撲、親子相撲、兄弟相撲などが人々の大声援のなかでとりおこなわれた。

そして夜になると、月光の下で焚き火を焚き、昼の疲れも吹き飛ばして、八月踊りが繰り広げられた。それは十六日の明け方まで続けられた。

八月踊りは米作りの喜び、故郷の土に生きる誇りを子々孫々に伝える踊りである。二重三重の輪を作って踊りは夜明けまで続く。敵も味方もなく、貧富の差も、老若男女の別なく、他国人、同郷人を問わず、楽しく十六夜まで続く。その心情は、「村人の全てが、ふだんの諍いの感情も振捨て、和やかとなって踊り、その踊りを奉納しなければ、島は荒れ災難が続き、島の繁栄がなく、お亙いに和が保たれない」という想いを込めた次の八月唄の歌詞となって表されている。

踊らだなすりば 島や荒れ果ててぃ

でい汝きゃ振り立てて 踊て上奉(うえしょう)ろ (さぁ、お前たち 夢中になって 踊ってさしあげろ)

八月の十五夜の月が最も美しいものとされ、八月唄にもそれが歌われている。それは、「(ゆわお)宮踊り唄」の「今日ぬ誇らしやば 物にたとえれば 山()差し上がる ()十五夜ぬ御月⁄山()差し上がる ()十五夜ぬ御月よ 加那が(じょ)に立ちば 曇てたぼれ」(今日の誇らしさは、物にたとえれば、山端に上がってらっしゃる 十五夜の御月様のよう⁄ でもな、山端に上がってらっしゃる十五夜の御月様よ あいつが門のとこに立ったなら 曇ってくださいな)の唄にも鮮やかである。

八月踊りに歌われる唄は、月ならば月、花ならば花と、一連のまとまりを持った歌詞が続けて歌われる。これを「流れ」歌といい、多くの場合この「流れ」は情熱的な男女の恋を絡ませた歌詞(ねんご)によって編まれる。主題毎に多くの流れ歌が伝承されてきた。歌も踊りも最初はゆっくりした調子で始められるが、次第にテンポを速め、最高潮に達した頃には息()くまでになった。夜更けて最後には、来年の八月まで島を見守って下さるようにイビガナシに頼み、踊りを終わる。

島やイビガナシ

来年の八月に

島守てぃたぼれ

踊て上奉(うえしょう)

イビガナシとは村の守護神であり、本土の氏神様と考えると良いかも知れない。この祖先神信仰と関連して、「あらしゃげ」という言葉があるが「新しく捧げ奉る」の意である、節を変える時に歌われる。「うしゃげ」は「押し上げて神に供え物を捧げる」という意味である。おそらく語源は同根なのであろうが、北大島では「急調子にする」という意味でこの言葉は使われる。八月踊りで叫ばれる囃し詞の「うせうせ」とは、これも「奉る」の意である。

なお神は、イビガナシとは別に「御祖(うそ)加那志」ともいわれるが、これは祖先神を指し、送り盆の夜にはこの方の詞が使われる。

 板敷払(いたじきばれ)(八月十六日)(再録)

十五夜祭りの反省会を兼ねて、村人の親睦と連帯意識の高揚を図るためにおこなわれる。この板敷払が終わらないと、十五夜祭りは終了しないといわれた。

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2 八月踊り唄の身体性とエロティシズム

 ところで、この研究通信の開始を告げる第1号で、私は、昇が笠利の鶴松(薩摩藩時代に名物女唄者と呼ばれた)の唄――機織り中の鶴松に薩摩藩士が仕掛けてきたセクハラを彼女が冗談めかして、しかし断固はねつけ追い払う――を取りあげて、それを「きわどい官能をいかにも自然に率直に表現したもので、少々露骨ではあるが、日常の話し言葉がそのままとっさに口を()いて出た即詠即吟の好適例」の一例と評していたことを紹介した。その唄とは、くりかえせば、次の唄であった。

玉乳(たまち)(かち)りむりば()だるより勝る、(うし)軽々(かるがる)()もれしょうしゃ

(玉のようなお乳掴んだのだから、撫でるよりずっといい、後姿も軽々とお行きなさい!)

実は、私は、この歌については昇のくだんの著書を読む前から知っていた。まさに、富島さんから教えてもらっていたのだ。彼が奥さんの父親から教えてもらった唄だと言って、或る時、私に教えてくれたのだ。まさに伝説の名唄者笠松の存在とともに。

その話は、我々の共著『奄美八月踊り唄の宇宙』にも載せた。同書の「笠利の女唄者鶴松の歌試合」という節の全文を引用しよう。(なおその時、昇が「()だる」と書いていた個所を、昇が特にその語義解説をしていなかったので、推測で、とりあえず「撫でる」という現代語訳を当てておいたが、今回同書を読み直していて、それが「(手を)添わせる」と訳すべきことが判った。また「()だる」ではなく、「()だる」と表記すべきことが。後述するように)

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 4 笠利の女唄者鶴松の歌試合(再録)

 ここで私は、富島さんに教えてもらったことをぜひ書いておきたい。彼の義父、つまり富島夫人の父親は船大工で、唄者としても有名であった。古いさまざまな八月唄やシマ唄に通じているだけでなく、たくさんの昔話や笑い話にも通じ、大変ユーモアに富んだ人であったという。その義父から彼が聞いた話だ。それは、奄美の伝承のなかで伝説の女唄者となっている鶴松についての八月唄をめぐる話だ。

笠利にかつて鶴松という才気煥発な美人の女唄者がいた。彼女はたんに才気煥発なだけではなく、その才気で薩摩の役人をへこます程の勇気をもっていた。それを物語る、次の伝説的な彼女の歌試合は奄美全島で伝承されてきた。物語はこうだ。

或る日、笠利の村に薩摩藩の役人が砂糖を隠匿していないか調べにきた。隠匿は重罪中の重罪であった。このとき機を織っていた鶴松は機転をきかせ、暑い盛りであったので、もろ肌を脱ぎ、乳房がかいま見えるようにして機を織った。すると案のじょう、そこへやってきた薩摩の役人は鶴松に魅せられて欲情を抱き、思わず近寄った。乳房を見せろと迫った。以下、こう歌われている。

◆腕上げよ 腕上げよ 綾入れ墨を拝見しよう(うでぃあげれあげれ 綾入墨(あやはじき)[1]をぅがも) 

  胸開けよ開けよ 玉乳房拝見しよう(むねあけれあけれ 玉乳(たまぢ)[2]をうがも)

     

そして、無礼にも役人は鶴松に抱きつき、後ろから乳房を掴んだ。すると鶴松はこう歌い返したというのだ。

○玉の乳房つかんだら 添うたよりもまさる(玉乳かちめれば すだし[3]よりまさり)

あとに心残さず 行きなされ旦那様(うしろかろがろとぅ いもれそしら)

つまり、「私の玉のような乳房を掴んだからもういいでしょう。私と添い合う仲になるよりもずっといいでしょう。満足したんだから、さっさとお帰りなさい」と歌ったのだ。いうまでもなく、この返歌は反語だ。そこには無礼な薩摩の役人に対する鶴丸の強烈な軽蔑が隠されている。「お前が出来ることといったらそれぐらいで、決して私と恋仲なんかになれやしないし、恋人とするセックスがくれる快楽なんかお前は得ることができないわ、さっさと帰れ」。これが隠されたメッセージだ。

ところが、この返歌に対して、もともとシマ口(奄美方言)のわからぬ薩摩の役人はさらなる返歌を送り返すというような粋な振る舞いなぞできもせず、思わず鶴松の乳房を掴んだ自分の行動にさすがにばつが悪くなり、隠匿調査もせずに引き返した。

さて、この事件はさっそく北大島一帯に知れ渡ったのだが、龍郷の或る集落の唄者がそれを聞いて今度は鶴松に唄者としての対抗心を燃やし、それなら自分が代わりに鶴松に唄試合を挑もうとやってきて、彼女にこう返歌を返したという。

笠利は禿げシマさ ギーマ木株がたった三株(笠利はげシマや ぎまぎ[4]みぶす[5]

 笠利の鶴松の 陰毛はたった三筋     (かさんちるまちぬ こぅげ[6]やみしじ)

 すると鶴松はこう返した。

たくさん陰毛があっても 家や倉の萱葺きはできないわ

(やまこぅげ[7]や あても 屋倉(やくら)()きなるめ

加那を満足させる分 あれば十分(加那がきもやすむぃ[8] あればゆたさ)

 いうまでもなく、ここでの「加那」は鶴松にとっての加那だから「私の彼」のことだ。ここでもまた、今風にいえば、役人のセクハラや、その側に立って代わりに返歌をしようとした龍郷の男唄者に対して、自分と恋人との性の満足の素晴らしさを対置して、彼らの性欲の貧寒さを嘲笑っているのだ。

 かくて役人は黒糖隠匿の捜査もしわすれ、また龍郷の男唄者は歌試合に負け、相次いで鶴松の前からすごすご帰ったというのである[9]

 このように鶴松の連歌では、まさに折口信夫のいう男女の「物(いさか)」として、実にあからさまな性的な歌掛けがなされ、しかも、そこでは薩摩の役人に対する奄美の女の嘲笑と抵抗が主題化され、しかも同時に、それが、一般的な意味で男の性欲のいわば浅薄さ――情あるいは精神とたやすく切り離される――に対する、女の――心身の一体性をはるかに重んじる――嘲笑をも伏在させてもいる。その両方の意味合いにおいて、歌掛けの主導権が明らかに女に渡されている。

 赤松啓介の議論に関連させてみよう。すると、こういえないか? この鶴松がおこなう薩摩の役人や龍郷の男の唄者との性的歌掛けは、「男の側からの一方的情事」というベクトルからの「性欲だけを目的とするような情事唄」、いわば性器的関心だけに駆動された「猥歌」では全然ない、と。

 薩摩の権力に対する奄美の女からの抗議と嘲笑、男の性欲の浅薄さへの女からの抗議と嘲笑、そして恋人(加那)とのセックスがもたらす快楽の深さと豊かに対する女からの誇り高き肯定、これが鶴松の「歌試合」が体現するものだ。しかも、奄美の男もまた、この鶴松の唄を奄美のシマ唄と八月唄の精神を示すものとして愛し、伝え続けてきた。富島さんの義父が示すように。

 ついでながら、八月唄やシマ唄(アシ)びにおける掛合いの方法への理解を助けてくれることなので、次のことを書き添えておこう。これまで述べてきたように、富島さんから私はこの鶴松の唄を一つの物語を語る連歌として教えてもらった。ところで、恵原義盛の『奄美の島唄 定型琉歌集』においては、先の四連の歌詞は互いに切り離されてそれぞれが別な歌詞群のなかに配置されている。恵原は注を付けて、これら四連の歌詞が実はこの鶴松のエピソードを物語る連歌のそれぞれの部分であることを明記しているが、このことは次のことを良く示すものとだ。

 つまり、実際の歌掛け遊びの場においては、その時の遊びの情況に促されて、掛合いの即興を指導する打ち出し役が、もともとの連歌的流れから或る一部分だけを引き抜いて相手にぶつけることがよくあるということだ。

 たとえば、「うでぃあげれあげれ 綾入墨(あやはじき)をぅがも/むねあけれあけれ 玉乳(たまじ)をうがも」は、鶴松と薩摩の役人とのもともとの物語の文脈のなかでは、役人が鶴松に歌い掛ける無礼な文句である。だが、これを元の文脈から引き抜いて、恋人同士の陽気なセクシュアルな気分に満ちた遊びの場に持ち出せば、青年たちの娘たちに対するいささか無礼ではあっても陽気で場を盛り上げる囃し言葉に転じうる。あるいはまた、「笠利はげシマや ぎまぎみぶす/かさんちるまちぬこぅげやみしじ」は、それを独立に歌えば、鶴松に対するからかいの歌からむしろ笠利地域への悪口の方に意味の重心が動き、たとえばお国(シマ)自慢などの歌試合で、笠利へのからかい歌として絶好の歌詞として選ばれるといったことが起きる。

 そういうことの積み重ねのなかで、元の連歌的文脈は忘れ去られ、それぞれの連がいわば独立句として人々によって記憶されることにもなろう。かくてまた、そういう形でかなり独立化したフレーズ群としてほぼ全島に共通に八月唄の歌詞が共有されこととなり、その土台の上で今度は各集落で他の集落とは全く異なったフレーズの組み合わせが自分たちの独創として生じ、それがその集落独自の八月唄として伝承されるということにもなろう。

 7 八月踊り唄の身体性とエロティシズム(再録)

 さて、私はこの「探訪記」の冒頭でこういった。八月唄の「歌垣」的な掛合い性によって、八月唄は《強く濃い身体性を呼吸するがゆえに、実に素朴にセクシュアルでありエロティック》な表現性を帯びる、と。

この点を私は論証したい。そのために、恋人たちの別れを歌う八月唄の定番のアイテムたる、「形見」の問題を取り上げたい。まず読者には本書第一部第三章の《「みかだ」と「手拭い」》の項目を振り返っていただきたい。

私はその項で一例として唄「おぼこれ」から次のフレーズを取り出している。

「振りやかれぬ 匂い残ちうちうかば 体臭(みかだ)する時や 吾事(うめ)よ」(別れに 匂いを残しておくぞ 体の匂いがする時、な、俺のことを想えよ)というフレーズである。それは、加那との別れを歌う歌詞の定番中の定番ともいうべきもので、「祝ほ宮踊唄」、「千鳥浜」、「おぼこれ」、等でも繰り返される。また、必ずといってよいほどこのフレーズには次のフレーズが掛けられる。

別れて行きゅり (ぬう)ば形見()きゅむぃ (別れていくなら 何か形見 置いていって)

汗肌(あすぃはだ)手拭(てぬぎ) うりど形見    (汗をかいた肌をぬぐった手拭い、それこそが形見だ)

また次の掛合いのフレーズも恋愛歌に出てくる定番のそれである。「目のちゃま」、「えへちかど」、「あっせ越えて」、「うらきりゃしゃ」等に出てくる。

一夜(ちゅゆる)(はだ)すでも 二夜肌すでも     (一夜肌を添わせても  二夜肌を添わせても)

肌すだる(くどぅ)や 忘れならぬ       (肌を添わせたこと 忘れられないわ)

深夜(しんゆる)ば通てぃ 一夜(ちゅゆる)肌すでも        (深夜に通って 一夜肌を添わせても)

すだる一夜や忘れならぬ        (添いあった一夜のこと 忘れられないわ)

本書第一部第三章の「『すだる』における『添う』と『住む』」の項目にも書いたが、右のフレーズのなかの「すでも・すだる」に富島さんは「住でる・住だる」と漢字を当てている。ところで、恵原義盛によれば「すでる」という言葉は、「添う」という意味の言葉である。第三章でも強調したが、奄美では「住む」という意味の「すでる」は同時に「肌を添わせる・触れあう」という身体的でエロティックな意味を濃厚に帯びている。もちろん今でも、また本州(ヤマト)でも、愛しあって結婚し、離婚することなく生涯その結婚をやり通すことを「添い遂げる」というし、男女が共に住むことを「添う」と表現することは決して稀ではない。

しかし、私はこう思う。「添う」という身体感覚の強度、したがってまた、そのセクシャルでエロティックな含意のもつ濃度において、現代の語法はかつての奄美の「すでる」という言葉が呼吸していたそれよりはるかに劣る、と。私にいわせれば、前述の「みかだ」と形見としての「手拭い」の関係は、このような「添う」と「住む」の一体性に強く波打っている肉体的で性的な感受性を土台にしてこそ成り立つものである。

再び恵原の『奄美の島唄 定型琉歌集』から彼の記述通りに引けば、次の如き歌詞がある。

しのぶやまみちに ふねやちら[10]すとも (慕い行く山道に 骨を散らしても)

  はだすだるかなや わすれならぬ   (肌を添うた加那は忘れられない)

しのぶやまみちに ふねやちらすとも   (慕い行く山道に 骨を散らしても)

わがすだるかなや よそでなさぬ    (肌添うた加那は 他所の手にさせぬ[11]

あるいは、先の「目のちゃま」の結びのフレーズはこうだ。

  玉黄金すみば 吾きゃむ玉黄金     (玉黄金のお前と添えば 私も玉黄金)

   すそな者すみば 吾きゃもすそに    (駄目な者と添えば 私も駄目に)

ここには、愛には愛によって応え、欲望には同じ欲望によって応え、この相互性によって同一のものへと互いに――相手を仲立ちにすることで――成ってゆく、愛の快楽を織りなすセクシュアルなプロセスについての感受性と認識が鮮やかである。恵原が採集した歌詞にはほとんど同じ内容がこう歌われている。(記述は恵原)

たまこがねすめば わどぅたまこがね   (玉黄金に交わると 吾身も玉黄金になる)

そそななきゃすめば わどぅぬそそな   (粗粗な貴達染むと 吾身も粗粗になる[12]

右の歌詞にある「わどぅ」の「どぅ」は胴体の胴で、恵原が「吾身」と漢字を当てている通り体・身体を指す。まさに恵原が捉えているとおり、そこでは身体と身体のコミュニケーションが問題になっているのである。まさにこのような文脈において、別れに際しての形見は加那の汗肌を拭ってその「みかだ」を残す手拭いとなったのだ。

この点に想いを馳せ、今日のわれわれの文化のありようを振り返るとき、私は或る衝撃を覚える。というのも、現代のわれわれの身体感覚、ならびにそれを基底に置きもすれば逆にそれを一個の象徴とするわれわれの対人感覚のありようは、まさにひたすらにほとんど強迫神経症的に脱臭化を追い求めているそれだからだ。つまり、脱身体化を。奄美の八月唄が呼吸する身体的感受性とわれわれのそれとがあまりに相違するどころか、まさにその志向性において正反対であることに、私は衝撃を受けざるをえない。

 しかも、このセクシュアルでエロティックな身体的感受性のおおらかな表現性は、既に述べたように本州(ヤマト)の民謡世界と比べても比類ないものだと思われる。「古仁屋八月踊り唄集」には登場しない幾つかの歌詞を、参考までに、恵原の採集から拾い出しておこう。

たまぢむりむりとぅ たまだすきかけてぃ   (玉の乳房は盛々と 玉襷をかけて)

  をさぬなりうとぅば きちどぅきゃをた   ((をさ)打つ鳴音を 聞いてぞ来ました)

玉ぢむりむりとぅ はたらきゅるをなぐ     (乳房は盛り盛りと 働いている娘よ)

 やねやえんどしぬ いさたあらめ   (来年は縁づく年との 話があるのではないか[13]

かながしらむねば たきしめてからや      (加那の白胸を 抱きしめてからは)

 ゆるぬあけくれも うぶぃやねらぬ      (夜の明け暮れも 覚えはない[14]

  •    *    *

最後に、『奄美八月踊り唄の宇宙』に寄せた私の「あとがき」の後半を紹介させてください。二〇一三年に書いたあとがきです。そこからちょうど十年経ちました。ますます強く思います。そこに書いた想いを!

(前略)…

今、奄美群島全体が世界遺産に登録される機運が急速に湧き出していると聞く。奄美が世界遺産に値するのはたんに未だ観光地化されぬその自然の原初的輝きによってだけではないはずだ。奄美の自然は奄美の比類なき民衆文化の伝統と一体のものである。自然を離れて人間はないとすれば、同様に人間にとって自然は人間を離れてはない。魂に自然が沁み込んでいることは自然に魂が沁み込んでいるということでもある。その事情を端的に示すものこそが、万葉集の時代の「歌垣」=相聞歌の魂をそのままに長らく生き続けてきた奄美八月踊り唄なのである。

私は本書で八月踊り唄のこの本質的性格を「宇宙歌」とも名づけた。そこでは自然と魂とが切っても切れぬ一体性を結んでいるのであり、男女の相聞歌は集落が生きてきた親子の情愛を核におく心情の共有共感の全体に深く浸されているのだ。本書においてことあるごとに繰り返し紹介したフレーズ、「踊らなすりば、シマや荒れ果ててぃ、でい! 汝きゃんふり立てて踊て差上ろ」は、まさしく八月踊り唄の「宇宙歌」的性格こそが可能とする人間的生命の全体的高揚を表わす。

奄美が世界遺産に値するとすれば、それはこの稀有な比類なき八月踊り唄の伝統によってもなのだ。そしてこの伝統のど真ん中では主体としての民衆が踊り歌っているのである。

    *なお文中に出てくる恵原義盛の著作は『奄美の島唄 定型琉歌集』海風社、一九八七年。      赤松啓介のそれは『民謡・猥歌の民俗学』明石書店。一九九四年。


[1] 「はじき」は「はづき(針突})で入墨のこと。(恵原義盛『奄美の島唄 定型琉歌集』九四頁)

[2] 「たまぢ」は乳房の美称、引き締まった玉のような乳房の意味。(前掲書、九四頁)

[3] 「すだし」は「すでる」からきており、「すでる」は「添う・一緒に住む」の意味の言葉。➩第一部第三章「『すでる』における『添う』と『住む』」

[4] 「ぎまぎ」は潅木のギーマ(前掲書、一二五頁)

[5] 「みぶす」は「三ぶす」、「ぶす」は「株」のこと。(前掲書、一二五頁)

[6] 「こぅげ」は陰毛のこと。(前掲書、一二五頁)

[7] 「やまこぅげ」は山のような陰毛という意味で、繁り豊かな陰毛のこと(前掲書、三七〇頁)

[8] 「きもやすめ」の「きも」は既に述べたように「心」のこと。心休め、気持ちを満足させること

[9] 小川学夫『奄美シマウタへの招待』、一八八頁にもこの逸話が取り上げられている。

[10] 「ふねやちらす」(骨を散らす)とは「死ぬ」の意味である。恵原義盛『奄美の島唄 歌詞集』、二五六頁

[11] 同前、二〇三頁

[12] 同前、二四〇~二四一頁

[13] 同前、二四二~二四三頁

[14] 同前、一三三~一三四頁


清 眞人 きよし まひと
1949年生まれ
近畿大学元文芸学部教授、2015年退職
奄美についての著書、『根の国へーー秀三の奄美語り』単著、海風社、2008年。『奄美八月踊り唄の宇宙』、富島甫との共著、海風社、2013年。『唄者 武下和平のシマ唄語り』武下和平との共著、海風社、2014年

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