昇 曙夢の奄美シマ唄論の紹介 第二回

清眞人からの研究通信・第2号

 (のぼり)曙夢(しょむ)の奄美シマ唄論の紹介 第二回

彼の『奄美の島々・文化と民俗』(一九六五年、奄美社)より

お断り この紹介通信を続けるにあたり、今回からは、『奄美の島々・文化と民俗』での昇の議論を、いっそう興味深いものとするために、元々この著作のいわば原典であった彼の『大奄美史』(一九四九年、奄美社)を振り返り、私が、これは『奄美の島々・文化と民俗』での昇の論述を補完する大変価値ある箇所であるからぜひこの通信の読者のお目にかけたいと思った箇所、それをその補完として『大奄美史』から引用することにしました。この第二回から。

 五、古式豊かな八月踊り(『奄美の島々・文化と民俗』・第三章「日本上代文化の宝庫」、その五)

 奄美民謡の最も特色的なものに八月踊(はちがつおどり)がある。八月踊は旧暦八月の晴夜を利用して、村の老若男女が毎晩のように広場(ミャー)に集まり、土俵を中心に円陣を描きながら踊る集団舞踊である。集団舞踊としては本土の盆踊りのようなものであるが、舞楽系統としては盆踊りと全く違う。本土の盆踊りは円陣の中に(やぐら)があって、その上で太鼓を叩き音頭を取っているが、大島の八月踊りにはそんな装置はなく、太鼓で拍子を取るだけである。太鼓(ちぢみ)(馬の皮で張った鼓)は円陣中の二、三の踊り手が手に持って踊りながらこれを叩き、広場の中心では篝火(かがりび)を焚いて円陣を明るくする。踊りの列は篝火の周囲を太鼓の音につれて歌を謡い、歌に合わせて手振り足拍子を揃えながら円陣の中心に向かって踊る。右回りあれば左回りもあり、手振り足拍子は踊りの種類によってそれぞれ異なっている。律動を主とした単純な民謡風の歌調は日本在来の和楽構成の音階と全然関係はない。八月踊りの拍子や舞踊の型は、鼓音の律動を基調としたスペイン系の舞踊に、ギリシャ系の肉体曲線の波長を添えたもので、南の島にはまことに珍しい郷土芸術である。口笛を賑やかに吹き鳴らしながら、太鼓の拍子につれて躍動する肉体の曲線の波動を基調とした円舞と、それに伴奏する軽妙な情熱的な曲調は、とても他の地方に見られない八月踊りの特徴である。

 『大奄美史』の第四篇・十三、八月踊りと八月歌の「八月踊りの舞楽系統」の箇所は、こう書き出されている。 

――「正月とともに大島の最大行事である八月節句の儀礼については「年中行事」の章に譲って、ここでは主として八月踊りのことについて考察してみよう。八月の節句は新節(あらしつ)紫挿(しばさし)嫰芽(どんが)とにわかれ、これを三八月(みはちがつ)といって、いずれも旧八月中に行われる。節句の日にはいろんな催し物があるが、最も特色あるのは相撲で、部落の中央の広場(ミャ、宮)に土俵を設け、四本柱を立て、行司がついて、本格的な競技が演じられる。

 昼間の相撲が済むと、夕刻からは同じ広場に老幼男女列をつくり、土俵を中心に円陣を描きながら集団舞踊に移る。それを八月踊りというのである。」――

 お十五夜のお(づき)()(きよ)らさ照りゅり、愛人(かな)(じょ)に立たば(くも)(たぼ)れと、八八六調の歌の軽快なリズムにつれて、複雑な舞の手を見せ、さまざまな身振りを描き出すところ、如何にも南島にふさわしい民俗舞踊であり、独特の野外集団舞踊である。

 一体に日本本土の舞踊は、素晴らしく洗練されてはいるが、線が細く、力が弱い。(しか)るに、大島の舞踊は、普通の手踊りでもそうであえるが、特に八月踊りになると非常に力強い動きを見せている。本土の人から見れば単純素朴とも思われようが、真心から言いたいことを歌にし、自然の情愛を基として咄嗟(とっさ)に力強く出てくるところに南島芸術の特色がある。

  『大奄美史』には、本土の盆踊りに対する次の批判の一節差し挟まっている。

――「新屋敷君も言われた通り。盆踊りに限らず、繊細ではあるが線が細く、優雅ではあるが弱々しくなよなよとしたものである。封建期を経ているだけに、義理に足を縛られている。義理と人情の絆にはばまれて(わず)かのあきらめの中から生まれたもので、素晴らしく洗練されてはいるが、線が細く、力が弱い。」

 八月踊りにはいろいろの種類があって、恐らくは四、五十種にも及ぶであろう。歌詞の多くは三味線歌と共通であるが、曲は全然違う。概して三味線歌が悲哀を基調として詠嘆的な沈んだメロディーであるに対して、八月踊の曲調は概して快活で、朗らかで、人々の興味をそそり、心を浮き立たせるような迫力と魅力とを持っている。だから誰でもこの雰囲気に入って、一旦興が乗って来ると、踊り出さずにはいられないのである。多数の村人が広場に集まって、階級を超越し、貧富の懸隔を忘れて、精神的に結合し、同じ一つの魂、一つの気分に融け込んで、楽しくなごやかな明るい気持ちで、誰でもちょっとの稽古で自由に踊ることができるのは、八月踊を措いて外にはない。ここらが郷土芸術として、民衆舞踊として、また歓びに躍動する心の自然の表現としての八月踊の特質であろう。

 この点から言って者、八月踊はそのまま何等の工夫を要せずに、農村娯楽として最も理想的な芸能である。三味線楽は感傷と詠嘆とを基調とした四畳半式の室内楽であって、大勢が集まって共に楽しむには余りに小宇宙的であるのに対して、八月踊は野外の集団舞踊として、興さえ乗ればいつで、また幾百人、幾千人でも円舞の列に加わることのできる大衆的特質を持っている。これをもっと芸術的に整頓し、組織化し、洗練していったら、民衆芸術として恐らく世界的名声を博するものであろう。確かに二、三の曲をいつまでも繰り返す単調な本土の盆踊りなど比較にもならないほど優れた立派な民俗舞踊である。

 八月踊の起源についてはいろいろな伝説もあるが、筆者はこう考える。昔「アシャゲ」(氏神社)で氏神を祭った時、または琉球時代に祝女たちが「あしゃげ」に集まって神遊びをした時、「オモリ」(「オモロ」の古形、神唄の意味)を謡い、太鼓を叩きながら、これに調子を合わせて、一人立ち、二人立ち、遂には祝女総立ちとなって踊ったものである。これがいわゆる祭式舞踊で、こうなると、二間四方ぐらいのアシャゲでは狭苦しくなって、勢い周囲の広場(ミャー)に溢れ出し、次第に円舞の輪を拡大しながら土俵の周囲を踊ったのが、八月踊の起こりである。八月踊の最初に踊る序曲を、「アラシャゲ節」といっているが、これは始め「アシャゲ踊」といったのを、後に語調を整えるために「アラシャゲ」といったのではないかと思われる。いずれにしてもアシャゲにおける祭式舞踊から由来していることを示すものである。

「あらしゃげ節」の最初に謡う祓い浄めの歌に、

 

島ぬ齋部(いべ)加那志 島見てたぼれ 七日(なんか)七夜(ななゆる)(いば)(うえ)しろ

(島のノロ神さん 島を見てくださいな 七日七晩 お浄めください)

 御齋(うゆうえ)する事や祖先(おや)からの(うへ)思子(うめつぐわ)(すへ)までや御齋()しょれ

 (お浄めすることは 上は祖先から下は可愛い子まで どうかお浄めくださいませ)

というのがある。「島」というのは近代的意義の「島」ではなく、古代意義の州・国・村・郷里のことで、思子(うめつぐわ)の思は敬称・愛称の接頭語として用いられる。加那または加那志が敬称・愛称の接尾語であると好一対である。この「アラシャゲ踊」を見ただけでも、歌の調子といい、踊りの方式といいまた歌詞といい、これが宗教的意義を有する荘重な祭式舞踊から発達してきたものであることがうかがわれる。一体に八月の節句そのものが既に新穀物を神前に供え、祖先を祀り、五穀の豊穣を祈る宗教行事であることが注意される。

『大奄美史』の第四篇・十三、八月踊りと八月歌の「八月踊りの舞楽系統」からの補完

■「けぶり(うど)り」について

(前略)…はほとんど毎晩のように部落の広場で八月踊りが行われるが、特に三八月(みはちぐわつ)の日には「けぶり(うど)り」と称して、部落中の家を一軒残らず次々に踊りまわる習慣がある。「けぶり」は煙または世帯の意味で、つまり家のことであるから、「けぶり踊り」を「家廻(やまわ)り」とも言っている。これはたぶん家々をはらい浄め、その祝福を祈る趣意から出たものであろう。夕飯を終わると村の男女は太鼓の音を合図に広場に集まって、ここでひとしきり踊って足並みを揃えたうえで「けぶり踊り」に移るのだが、部落中を家を残らず踊りまわるのには、夜を徹して翌朝まで及ぶのが普通である。

  • 節「八月踊りの起源と宗教的意義」の全文紹介(末部分は『奄美の島々…』と重なる)

大島の八月踊りは本土の盆踊りとは楽則的にも旋律的にもなんらの交渉を持たないばかりでなく、同時にまた琉球舞踊の影響も受けていない。島の民謡や或る種の手踊りは、琉歌と三味線の渡来によりその影響下に楽則的に組み立てられているが、八月踊りだけは三味線の伴奏を使用しないで、琉球舞踊の影響は少しも見受けられない。どちらかといえば、大島の八月踊りはむしろ台湾の原住民の生番(せいばん)の間に見る或る種の優れた集団舞踊や、スペイン風の軽快な調子の舞踊に多く似ている。特に口笛(ハト)を吹いて踊りに威勢を添えるあたりは全く同じである。それにスペイン風の闘牛と大島で行われている闘牛との類似などを考え合わせると、両者の間に何らかの交渉が考えられそうにも思われるが、その交渉がはっきりしない限り、たんに似ているからといって、直ちにスペイン舞踊の影響を云々するのはどうかと思う。仮にキリスト教伝来以来マニラ航路のスペイン商船が日本本土と往復の途上、薪水や食料を求めるために一、二回寄港したことがあったとしても、島民はむしろ恐れて、近寄るどころか、逃げ隠れたであろうことは他の例でもわかる。いわんや船員からスペイン風の舞踊を教わるまでに親密な交渉を持ったとはとうてい考えられないのである。昔から気候風土を同じくする異民族間において嗜好や遊芸の類似している事実はよく見受ける例で、これはむしろ偶然の一致というものであろう。

 物の本などに、大島の八月踊りは僧俊寬が硫黄島で死去した翌年すなわち治承二年七月十五日の夜、島民が俊寬を祀る社殿の庭に集まって、篝火を焚きながら踊ったのに始まると言われているが、これは硫黄島のことであって、大島、特に八月踊りとはなんら関係のないことである。また口碑によれば往事(といっても薩摩藩時代)大島観音寺が赤木名にあった頃よく火事で焼ける、新築するたびごとに焼けるので、或る時村の長老が中国に旅行した際、或る中国の大官にその話をして、何とか火災を避ける方法はないかとたずねたところ、大官の言うには、それは旧八月に入った最初の丙の日に村中の者が集まって踊ったなら火事が起こらないと教えてくれた。そこで長老は帰島後村中に指令を出して、八月の丙の日から踊り始めたのが八月踊りの起こりだという。それで八月歌の囃子に絶えず「ウセウセ」とか「ウセヒヤルガヘー」とか繰り返すのは火事を「打ち消せ(ウセ)」という意味だといわれている。また丙の日の新節に大きな網を村中の男女がえんさえんさ囃し立てながら村中を曳き回った時代もあるそうだが、これも火事除けの行事であったと伝えている。だが観音寺の創建は薩摩藩時代の初期であって、八月踊りはずっとそれ以前の琉球帰属時代から行われていることが推定されるから、この口碑はそれまで行われていた八月踊りをいっそう盛んにしたということを物語るものであろう。

 八月踊りの起源については、著者が前にちょっと触れておいた通り、ノロクメの祭式舞踊(前出)に端を発したに違いないと思う。すなわち、ノロクメが例のアシャゲでお祭り(神遊び)を行う時は、おもり(神唄)を謡いながら、それにつれて祭式舞踊を踊ったのであるが、だんだん昂奮してくると、お神酒(みき)の効果も手伝って、あとは神人(かみんちゅう)総立ちとなって踊ったものである。そうなると、小さなアシャゲでは狭苦しくなって、勢い周囲の広場(ミャ)に溢れ出し、次第に輪を拡大して遂に今日見るところの八月踊りにまで発展したものであろう。でなければ、ノロクメ以前の氏神社時代の祭式舞踊から発達したものと思われる。いずれにしても宗教的儀礼と関係が深い。それは八月踊りの最初に踊る「あらしゃげ節」と最後の「おぼこり節」(両節とも後出)とを見ても、歌の調子といい、踊りといい、また歌詞といい、これが宗教的意義を有する荘重な祭式舞踊から脱化してきたものであることが一見して首肯されるからである。大島南部地方の「あらしゃげ節」の最初に謡う祓い浄め歌に、

 島ぬ齋部(いべ)加那志 島見てたぼれ 七日(なんか)七夜(ななゆる)(いば)(うえ)しろ

(島のノロ神さん 島を見てくださいな 七日七晩 お浄めください)

 御齋(うゆうえ)する事や祖先(おや)からの(うへ)思子(うめつぐわ)(すへ)までや御齋()しょれ

 (お浄めすることは 上は祖先から下は可愛い子まで どうかお浄めくださいませ)

というのがある。


清 眞人 きよし まひと
1949年生まれ
近畿大学元文芸学部教授、2015年退職
奄美についての著書、『根の国へーー秀三の奄美語り』単著、海風社、2008年。『奄美八月踊り唄の宇宙』、富島甫との共著、海風社、2013年。『唄者 武下和平のシマ唄語り』武下和平との共著、海風社、2014年

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