昇 曙夢の奄美シマ唄論の紹介 第三回

清眞人からの研究通信・第3号

 (のぼり)曙夢(しょむ)の奄美シマ唄論の紹介 第三回

彼の『奄美の島々・文化と民俗』(一九六五年、奄美社)より――『大奄美史』(一九四九年、奄美社)からも補填

 今回は、『大奄美史』に出てくる昇の「三味線」論を紹介します。その大部分は、『奄美の島々・文化と民俗』の第七章「方言と歌謡」の節「四 民謡の内容と芸術的意義」のなかの「〔楽器〕」という表題の小さい分節にそのまま収録されています(一一一~一一二頁)。しかし、収録にあたって削られた部分にも興味深い箇所があります。そこで、『大奄美史』の第四篇「琉球服属時代(近古期)・「十一、歌謡の発達と特質」の末にある節「歌と三味線」をそのまま紹介することにします。また、その第四編「九、琉球の文化と芸術」には三味線のルーツである琉球での三味線音楽の発展史を素描した「三味線楽の発達」という節が含まれています。これもついでに紹介します。昇の「三味線」論を補完する良き役割を果たすと思うので。

 なお、第四編の十一章の最後には「名曲とその保存」と題された節が置かれています。昇がどんな歌を名曲と評価したのかを知ることができる興味深い節なので、これもそのまま紹介することにします。今回の研究通信の最後に。

 歌と三味線(第四編・第十一章・内 一九〇~一九二頁)

 大島の楽器ははなはだ貧弱で、わずかに三味線・太鼓(ちぢみ)・胡弓ぐらいを数えるだけで、それも皆最初は琉球から伝来したものである。今では、胡弓ですらなくなっているが、或る時代行われていたことは次の民謡でも分かる。

さんぎゃまぬ胡弓ッぐわ一里がれ鳴響(とよ)む、一里から聞ちど、(わん)(きゃ)をた 

(「さんぎゃまぬ」は笠利の一部落。「がれ」は「まで」の意・大島の北分では「がれ」と言うが、南部では「がで」と言う。「がで」が古形である)

(さんぎゃまぬ部落から胡弓が、一里もだぜ、鳴り響く、一里先から聞きつけ、吾は来たぞ! 清訳

 楽器のうちで最も広く行われているのは三味線(蛇皮線)で、従って最もよく発達を遂げているものも三味線である。大島では三味線は魔除けの力があり、祝福を招くものであるとの迷信も手伝って、たいていの家には必ず一艇を備え、家宝として大切にしている。今から約四百六、七十年前、尚真王時代に中国から(安南(ヴェトナム)伝来が本当らしい)琉球に伝わって、間もなく大島にも伝わったらしいから、琉球服属後二百年ほど経ってからのことだろう。民謡は琉歌の影響の下にすでにその以前から行われていたが、三味線の伝来は単調な大島の歌謡界に一新紀元を画したもので、その普及とともにますます民謡の発達を促し、これを音楽的に組織化するに至ったことは大きな事件であった。各種の民謡曲の現れたのもその後のことで、以来大島では「歌三味線」と言って、歌と三味線とは離すべからざるものになってしまったが、作曲者の名が一、二の外はほとんど伝わらないのは惜しいことである。他に何らの慰安も娯楽もない島の人々にとって、「歌三味線」こそは 唯一の娯楽の泉で、これによって彼らは自分たちの悲痛を美化し芸術化して自ら慰めたのである。月明の夕、孤島の磯部に、芭蕉の葉陰に、あるいは竹藪の彼方に、切々として胸を打つものは実にこの三味線の哀調である。大島の民謡に、

  夜中(ゆなか)三味線や医者よりも(まさ)り、()なちもる愛人(かな)()づで聞きゅり* 

* (夜中の三味線は医者よりも効く、寝込んでいた恋人も起きて聴き入る、清訳

というのがある。夜中三味線は道弾き三味線ともなっている。人の寝静まった夜半誰が流して行くとも知れぬ三味線の切々たる哀調に、病床に伏している愛人が病気も忘れて、起き上がってその余韻に聞き惚れ、病気までが療ってしまうという気持ちと、三味線への愛着とを歌ったものである。琉球では人が破産した場合、まず不動産を売り、次に墓を売り、最後に家伝の三味線を売るということであるが、奄美人の情趣生活もこれと同じく、少なくとも三味線楽の範囲においては生活則芸術、芸術則生活の境地まで達して、暇さえあれば歌三味線に耽溺している。多感、多情、情に生き、情に溺れ、情に死して悔いを知らないのが奄美人の意気であり、その民族的特性である。(傍点、清)

 琉球では三味線渡来後、真壁という三味線制作の名人などが現れ、時の琉球政府でも三味線楽を大いに奨励したので、男は年中遊んで歌舞音曲に暮らし、女が出でて働くという、いわゆる男逸女労の変態現象まできたしたことは有名な話であるが、大島でも古くから三味線の弾奏は男に限られ、女は歌い手と相場が定まっていた。もっとも近来は色街辺の遊女で三味線を操る者が出てきたようだが、原則としては今でも男の専技となっている。(傍点、清)大島の民謡に

  (おなぐ)生まれとて歌知らぬ女、物に喩へりば()むる(たまご) 

    (女に生まれたのに歌知らぬ女、物に例えれば、腐った卵さ、清訳

というのがある。女と生まれて歌を謡えない女は孵化しない卵のようなもので、廃物だとの意である。

  •    *    *

 三味線の発達(第四編・第九章・内 一五八~一五九頁)

 琉球の楽器には三味線(蛇皮線)・琴・笛・胡弓・鼓等の各種があるが、その中で一番広く行われているものは三味線で、従って一番よく発達を遂げているのも三味線楽である。それ故に琉球の音楽はこの楽器一式でもって遺憾なく代表することができる。三味線の起源は今のところ明瞭を欠いているが、琉球の古歌に、

 歌と三味線のむかし始まりやいんこねあがりの神の御作(みさく)

というのがある。このインコネアガリという人は阿嘉武尊子(あかいんこ)のことで、オモロネアガリとともに有名なおもろ詩人である(「おもろ」とは日本本土の和歌に当たる琉球の詩歌のこと、)。二人とも五百年ほど前の尚真王の時代の人で、或いは同一人だったという説もある。この歌で見ると、アカインコが初めて歌と三味線との調和をはかったものと思われる。三味線は明の嘉靖の頃中国から琉球に伝わり(安南伝来が本当らしいが或いは安南から中国を経て伝わったのかも知れない)、それから日本に渡ったということであるから、アカインコは「この楽器が渡来して間もなく、これを自国の歌謡に合わせて謡った最初の人であると推定してもさしつかえあるまいと、伊波氏(伊波普猷、有名な民俗学者で沖縄学の父と呼ばれる、柳田國男と親交を結ぶ、)は言っている。そしてオモロネアガリが首里城内で幅をきかしていた宮廷詩人であったに対して、アカインコの歌謡は三味線一挺を堤げて津々浦々を謡いまわった遊歴詩人であった。彼によって、本来がすでに民衆芸術であった琉球の歌謡はいやがうえにも民衆化され、それにつれて三味線楽も急速に普及したであろうことが想像される。そして三味線がもてはやされるにつれて、歌謡の形式は著しく変化したに相違ない。由来三味線は叙事詩よりも抒情詩に適した楽器であるから、その時まで手拍子や鼓に合わせて謡っていた叙事詩のおもろが、三味線の普及とともに衰えて、抒情詩の琉歌が盛んになり、ひいてはさまざまな音曲を生みだすに至ったことは当然のことと言わねばならぬ。そして音曲の発達は同時に三味線楽の発達であり、両者は互いに助け合って完成に近づいたのである。(傍点、清)それにはアカインコ以後の名人達の努力に負うことが多かったのはいうまでもない。即ち元和・天和の頃には湛水親方が出てアカインコの音楽に大改善を加え、享保・安永の頃には屋嘉比親雲上(やがびべーちん)が出て初めて琉球楽譜工工四(くうくんす)を作り、さらに豊原・知念等の音楽者を経て、安富祖(あぶそ)・野村に至って大成されたのである。

名曲とその保存(第四編、第十一・内、一九一~一九二頁)

 数多い大島の民謡曲の中で、特に名曲として人口に膾炙しているものには、先に挙げた数曲(冒頭の「歌と三味線」節で取りあげた、)の外に「くるだんど節」、「かんとみ節」、「屋茶坊節」、「まんこひ節」、「春加那節」、「長雲節」、「塩満長浜(しゆみちながはま)節」、「太陽(てだ)()てなごれ節」、「俊良節」、「うらとみ節」、「風雪節」、「よいそら節」等いろいろあるが、その中でも「太陽(てだ)()てなごれ節」は、節回しの複雑微妙な点において、抑揚と余情に富んでいる点において、名曲中の名曲である。かつてロシアの有名な堤琴家(アコーディオン奏者、)ポリス・ラスは一夕著者(昇、)の宅で、直伝次郎三味線伴奏で歌手中山音女が謡ったこの曲のレコードを聞いて、驚嘆の余り世界的だと激賞したことがある。けだしその意はこの曲中に中国・印度・南洋等の東洋的調子が巧みに含まれているからである。(傍点、清)

 これらの音曲は日本の俗楽調とは何ら旋律的の関係がなく、従ってまたその影響も受けていない。大島の民謡曲はもっぱら琉球の東洋的旋律が奄美人固有の純情的民族性と融合して大島特有の旋律を生み出したのであるが、それが薩摩時代に馴致された厭世的人生観の影響を受けて詠嘆調に変わって来たのである。

 三味線の製作や奏法も琉球と変わりはない。蛇皮線と呼ばれている通り、本来は蛇皮張りであるが、大島では蛇皮張りとともに紙張りも行われている。質の良い日本紙を使って、芭蕉を伐ったあとの切株から滲み出る汁で張るのである。音色のいいことはむしろ蛇皮張り以上であるが、南風や雨天の際湿気を吸収して音響を減ずる欠陥があるので、現在ではほとんど蛇皮張りに改まっている。

 琉球にはすでに数百年前から立派な楽譜(工工四(くうくんす))があって、それに拍子と速度を記入し、拍子は画数(符号)で定め、速度は人間の脈を利用し、高度は首里王府の明笛を標準としているが、大島にはかような基本となるべき楽譜がないばかりか、定まった家元とか師匠というものがなく、単に口伝によって伝わっているに過ぎない。だから弾き手によってまた地方によって、それぞれ我流が加わってくるのは免れないところである。そこが民謡の民謡たる特徴であるといえばそれまでのことであるが、一面にはそれがために多くの破格や変調を生じて本末の区別がつかないようになる恐れがある。今においてすみやかに音曲保存の道を講じなければ、ただに本末を明らかにすることができないばかりでなく、遂には民謡そのものまでも湮滅して、懐かしい祖先の声とともに貴重な伝統までが永久に失われるであろう。(傍点、清)

清からのコメントと提案

  • 「奄美人の情趣生活もこれと同じく、少なくとも三味線楽の範囲においては生活則芸術、芸術則生活の境地まで達して、暇さえあれば歌三味線に耽溺している。多感、多情、情に生き、情に溺れ、情に死して悔いを知らないのが奄美人の意気であり、その民族的特性である。」という箇所を読んで、自分のなかに生まれてきた感想、これを出し合い、交換し合い、議論しましょうよ!

 「昔はそうだったのか! そういえば祖父母を思い出したら、そういう面、確かにあったなぁ!」とか、「今だってそうだぜ! こんなことあったよ!」とか、「いいなぁ昔は、取り返したいなぁ! その面!」とか、「今じゃ、全然無し! 奄美も本土も変わりなし! みんな同じでテレビとスマホが撒き散らすモノマネ文化だけ!」とか、いろいろぶつけ合って!

  • 「三味線の弾奏は男に限られ、女は歌い手と相場が定まっていた。もっとも近来は色街辺の遊女で三味線を操る者が出てきたようだが、原則としては今でも男の専技となっている」を読んで思い出した、この件にまつわるいろいろなエピソードを出し合いましょう!
  •  たとえば、「もう大昔の話だけど、うちの祖母が三味線弾いてる母を叱って、『女がするのは下品、するな! 三線(さんしん)は男だけが弾くのが決まり!』」と言ってたのを」、とか、
  • 「大島にはかような基本となるべき楽譜がないばかりか、定まった家元とか師匠というものがなく、単に口伝によって伝わっているに過ぎない。だから弾き手によってまた地方によって、それぞれ我流が加わってくるのは免れないところである。…(中略)…今においてすみやかに音曲保存の道を講じなければ、ただに本末を明らかにすることができないばかりでなく、遂には民謡そのものまでも湮滅して、懐かしい祖先の声とともに貴重な伝統までが永久に失われるであろう。」との昇の危惧と、故武下和平師匠に「武下流」の立ち上げを提案した山田米三さんの想いは、ピタリと重なるのでは!

『唄者 武下和平のシマ唄語り』の一八六~一八八頁を読んで下さい。

「和平、おまえは『武下流』でいけ、それを創らんとシマ唄は後継者が育たんで滅びる。シマ唄が滅びんためには、おまえが『武下流』を創るほかないんだ」

これが米三さんの檄でした。

  • 私は最近知りました。徳之島出身、現在「関西シマ唄教室連合会会長」の米川宗夫さんが自費出版本『シマ唄ぬ ありまくりま――譜への試み』でシマ唄の「作譜」作りの試みをなさっていることを。同書に記してあった出版元の「ウエノ印刷」の℡番号は、078―332―0014


清 眞人 きよし まひと
1949年生まれ
近畿大学元文芸学部教授、2015年退職
奄美についての著書、『根の国へーー秀三の奄美語り』単著、海風社、2008年。『奄美八月踊り唄の宇宙』、富島甫との共著、海風社、2013年。『唄者 武下和平のシマ唄語り』武下和平との共著、海風社、2014年

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